![]() 前田 丈仁 Takehito Maeda 六三四(musashi)ロードマネージャー 35才 既婚歴なし! 身長180cm 体重80kg 昭和38年8月 母の実家である大分県日田市に生まれる。 幼稚園まで千葉県松戸市に住む。当時からすでに同じ顔である。幼稚園の帰り道、道端に捨ててあったテレビを友人と分解して遊ぶ。翌日その家の2才くらいの男の子が「あのおにいちゃんたちがうちのテレビなおしてくれたんだよ!」きっと新品を買ったんでしょうが、何か不思議な感覚を覚え、機械を見ると分解したくなってしまう。これがきっとトラウマになったんだろう。 小学校1年から二十歳まで東京は湯島天神の裏手に住む。
左の写真の奥に見えるマンションに住む。まさに境内は目と鼻の先。小学校も近くの湯島小学校。学校の帰り道に境内で遊んでいました。この時、よく和太鼓を外で練習していたのが「天神太鼓」。こののち「大江戸助六太鼓」というプロ団体がここから生まれる。そこに浩司、宝がいたことは当時私も知る由がなかった。 文京区立第四中学校、都立竹早高校と進み高校2年の時、文化祭でバンドのPAを頼まれる。小学校4年ですでに放送部におり、オープンテープの編集をしていた私とは言えPAという言葉すら知らなかったわけですが、「一緒にステージを作る」という快感を覚えてしまったのはこの時です。 進学校に在籍していながらアマチュアの演劇集団の音響や、他の学校の文化祭でバンドのPAを引き受けたりと、すでに仕事してました。PA以外ではTBSの「ザ・ベストテン」や日本テレビの音声さんを訪ねて出入りしたりとかしていました。浅草公会堂で「民族芸能保存の会」でアルバイトした時、津軽三味線の独奏を初めて生で聞き、「乗りはロックだ!」と思い民謡の素晴らしさを認める。 高校卒業後、新宿の日本電子専門学校に入学したところ、すでに一緒に芝居の音響をしていた人が講師になっていて「お前がなんでこんな所にいるんだ?」と言われ、すぐにやめてしまう。 学校の近くにある新宿LOFTで無料奉仕をはじめるものの、頭の固い先輩と喧嘩してクビ。その時あいだをとりなしてくれた大先輩がBOOWYを担当していた森山氏。その後、何回も仕事をご一緒させてもらい今でもお世話になっています。 高校の時からPA機材を貸してもらっていた埼玉の戸田音響サービスにちょくちょく遊びに行く。日雇いバイトのようなことをしている内、いつのまにか正社員となり、戸田市の住人に。当時アマチュアバンド向けの練習、録音スタジオができたばかりでPAの仕事以外にもスタジオを使って遊んだりする。 この時出入りしていたバンドは同じ年齢のプロを目指す連中がいっぱいいて、レベッカ、レッドウォーリアーズ、イエモンのヒーセたちもいた。この時「ヘレン」というロックバンドと全員同い年ということもあり気が合って多分史上初の「アマチュアバンド専属ミキサーマン」となる。ここに高梨康治がいた。二十歳くらいの貴重な写真。
四谷フォーバレーを起点に活動し、SHOYA、ZIGGYなどとも仲良くするが結局プロデビューの前にメンバーチェンジ。私もヘレンを離れ、会社も辞め元の湯島に戻る。 フリーとなりCMのレコーディングやテイチクのアーティストの専属PAの仕事をするものの食っていくことができず、日本通運で引っ越しのアルバイト。いつのまにかそこで気に入られてしまい運転手としてバイトに精を出す。しかし夢は捨て切れず「武道館でPAする!!」ともんもんとしていたものの手がかりがつかめない日々。 ある日アルバイトニュースに「コンサート専門の運送屋」の求人広告を発見。(有)日東急送サービス、今の(株)ムーブに入社。友人の関係で世田谷区世田谷に住む。最初はお菓子や雑貨のドライバーから始まり何回か単発のコンサートのチャンスやってくる。そこそこPAと楽器の知識があるトランポさんは珍しがられ、次々と指名で仕事をもらえるようになる。石川秀美チームにはもっとも可愛がられメンバーやスタッフとは今でもお付き合いしています。 元チューリップの姫野さん阿部さん伊藤さんらによる「オールウェイズ」というバンドのトランポ兼ステージというツアーを回ったことから(株)サウンドメディアというPA屋の創立メンバーに入れてもらう。この時松戸に移り住む。 この会社は(株)綜合舞台のPAオペレート会社ということで設立され、石川秀美のモニターや前田美波里、吉田拓郎、南こうせつなどをレギュラーに外タレの機材出し、単発のライブ、イベントに365日のうち360日全国を駆け回る。 写真は1989年の南こうせつツアー。左はギターの金太さん。右はバンドリーダーでベースの川嶋一彦氏。この2年後彼は小針克之助氏と「六三四(musashi)」を結成する。「舞 MAI」の作曲者でもある。そんなこと当時は私も川嶋氏もわかるはずもない。六三四(musashi)初代ベーシスト。
27歳のとき、本社 綜合舞台の機材担当になる。倉庫の関係から町田市鶴川に住む。システムの設計、機材や車両の運用など「裏方のさらに裏方」の仕事となる。このおかげで全国の同業者の方たちと知り合うこととなる。特に秋田の大曲でおこなわれる全国花火競技会は私の人生観を変えてしまった。 「日本の伝統でありながら最新の化学技術を結集し海外にも進出。リハーサルのない一発勝負。世界中の人々が無条件で感動する。」これこそ究極のLIVEです。 比較的早い時機からパソコンを使った制御やCADシュミレーションを実験的に取り入れ、同僚と好き勝手をやらせてもらう。
パソコン通信、インターネットも初期から取り入れ、ついに34歳の去年「インターネット中継のビジネスを研究したい」と長年勤めた会社を辞める。この時アキバに近いところに引っ越すために両国の物件を契約しようと不動産屋に行くと「今日でた物件ですが隅田川花火が目の前なんですよ」の一言で急遽、下町の向島に住むことに。 リアルオーディオを使った配信システムなどを研究、J−Streamチームと配信システムの立ち上げに参加。ビジネスとして軌道に乗るのは2000年と見ており、現在も研究は続行中。 フリーの「ネットワークAVエンジニア」として活動しつつ、やっと人間らしい時間ができたため旧友と連絡を取り合う機会が増えました。知り合いのつてで、やっと高梨とも12年ぶりに再会。とは言ってもお互いの家は自転車で2.3分の距離。今では二日に一遍は遊びに来ています。 今年の3月に「日立市で六三四(musashi)のライブがあるんだけど遊びに来ない?」ということで行ってみると六三四(musashi)のPAは(株)ヴァーゴの小瀬社長。モニターは同じく「たね」と佐藤くん。綜合舞台とヴァーゴは昔から深い関係があっていつもお世話になっていた仲。 日立市シビックホールの舞台管理には元綜合舞台照明の江口さん。一緒に美波里さんを担当していた先輩です。 これだけ知り合いがいたら働かないわけにもいきません。無料奉仕でせっせと働きました。
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この時はじめてライブを見て六三四(musashi)の音楽性はさることながらプロデューサー小針克之助氏の夢に共感した次第です。 現場のスタッフとミュージシャンが同じ立場で一つのステージを作っていく。アマチュア時代、それは「アマチュアの甘さ」と思っていました。プロの第一線で働いた時、どうしても超えられない壁がありました。それこそが「プロの厳しさ」と思っていましたが、今ではそれこそが第一線で活躍している人達の夢なんだと思います。 これからも「友人たち」と素敵なステージを作っていこうと思っています。 |