山口芳忠&横山謙三
1992年バルセロナ五輪へ出場を果たすべく、日本バルセロナ五輪代表が結成されたのは、実に五輪予選の2年前の1989年のことでした。
五輪のサッカーはこの時から、W杯との区別をつける為に23才以下という選手の年齢制限が用いられるようになりました。その為、この時の五輪代表は1969年8月1日以降に生まれた選手が選考対象となっていました。
当初、この日本五輪代表の監督を任されていたのは山口芳忠でした。山口監督は、五輪一次予選までの間に88年、90年のユース代表のメンバーを中心に80人以上もの、多くの選手を候補として合宿に呼びテストしました。しかし、これは選手の個人技にまかせたサッカーしか出来ず、また大学や日本リーグのチームの日程が噛み合わないなどの理由で、一貫した戦術が敷けないという状況の現われだったのかもしれません。
しかし、そんな中から選ばれた20人は、キャプテンの澤登を中心にストライカー山口敏の活躍などもあり、格下の香港や台湾、インドネシアを相手に5勝1敗という成績で五輪一次予選を突破します。
しかし、その内容は決して良いものとはいえず、決定機に得点が出来ないなどの課題も多々ありました。その為、この時期の五輪代表チームの評価も決して高いものではなかったのも事実でした。
それを受けてか、日本サッカー協会はこの時期の理事会で、当時日本代表の監督の横山謙三を総監督という立場で指揮をさせ、山口監督との二頭体制で最終予選にのぞむという方針を発表します。しかし、実際の指揮権は横山総監督にあり、実質的に一次予選を突破した監督の交代という出来事でした。
この決定には多いに疑問の声が挙がりました。横山監督は6月のキリンカップでは優勝したものの、日韓定期戦では惨敗。88年からほとんど結果を出せていない指揮官に対して、その手腕には疑問の声が多く挙がっていたからです。
結局、横山総監督体制下での五輪代表の調子も決して芳ばしいものではありませんでした。横山総監督は、一次予選後に高校生も含めた新しいメンバーを呼び、五輪代表チームは9月に行われたコニカカップに、強化の一貫として日本リーグのチームに混じって参加しました。
しかし、結果は予選リーグで2勝4敗で最下位。しかも勝った試合はほとんど一次予選と変わらないメンバーでした。所属チームとの兼ね合いなどで、試合前日しか練習が出来なかった事などもあり、チームの強化どころか逆に、中心選手の連帯感を養う事さえも出来なかったのではないか?そういった批判さえあり、ほとんど収穫はありませんでした。
また、強化合宿においてもその練習内容は、単調で応用の効かないものばかりでチームのビジョンもハッキリしているとは言えない状態でした。
こういった批判が、事前からあったにもかかわらず、日本サッカー協会は現体制を維持し続けました。
そうして迎えたバルセロナ五輪最終予選、日本は緒戦の中国戦で前半先制するも、その後2失点を喫し逆転負け。続くカタール相手も、やはり日本は先制はするものの同点に追い付かれ引き分け。第3戦のバーレーンには6得点で快勝し、一時は3位にまで浮上するも、続く韓国、クウェートに連敗し最終的に5位の成績で予選敗退が決まってしまいました。敗れた試合はいずれも1点差での敗戦でしたが、その内容は点差以上に完敗でした。
日本は、中盤からの意図的な攻撃がほとんど組めず、得点はセットプレーと偶然性が頼りでした。また、横山総監督の選手起用やその采配もやはり疑問を持たざるをえない内容でした。
結局、3年間の月日と1億円以上の強化費を費やしたバルセロナ五輪代表は、この時をもって解散となってしまいます。しかし、この時のメンバーには、澤登、下川、名良橋、小村、名波、藤田、相馬、藤吉など、のちにJリーグやA代表で活躍する選手が多く含まれていました。力はあったはずです。
それなのに、それを引き出す事が出来なかったのは、協会のバックアップ体制やスタッフの人事、指導者の戦術など、すべてがアマチュア的な体質だったと言わざるを得ません。
今回、僕はこのページを作るに際して色々と資料を調べたのですが、その際、果たして今の日本サッカー協会はこの時の教訓を完全に生かせているのだろうか?と思いました。
確かに、その後、日本は五輪出場もW杯出場も果たしました。しかし、昨今の日本サッカー協会内外での人事のイザコザは、この時のそれにどことなく通じるものがあるような気がしてしょうがありません。
なお、この記録は資料が揃っていないため、これから、どんどん修正を加えて行く予定ですが、断片的なものになっており不十分です。お気づきの点がありましたら、是非、情報をお願い致します。
89〜90年の日本代表の記録
(欧州遠征等)
91〜92年の日本代表の記録
(バルセロナ五輪予選等)
表紙に戻る