フィリップ・トルシエ
日本中が、興奮と熱狂に渦巻いた日本が初めて参加したフランスW杯、日本は残念ながら3戦3敗という結果に終わりました。岡田武史監督は、その責任をとって辞任しました。
とうとう次のW杯は、2002年、日本と韓国によって共催。日本サッカーも結果を残さなくてはなりません。
日本サッカー協会は、岡田監督の辞意表明後、次の監督の人選を開始しました。そうして浮かび上がったのが、フランス人のフィリップ・トルシエでした。
トルシエは1955年生まれ、現役時代はフランスのクラブチームでプレーしていましたが、それほど大きな実績は残していません。フランス・ナショナル・テクニック・ディレクションで戦術家としての養成を受け、その後、フランスで監督としてそのキャリアをスタート。コートジボアールのクラブチームの監督の要請を受けたのを機に、アフリカ大陸でその手腕を発揮。コートジボアール代表監督、南アフリカ、モロッコのクラブチーム、ナイジェリア代表監督、ブルキナファソ代表監督などを努め、98年南アフリカ代表の監督としてフランスW杯に乗り込みました。結果は2分け1敗。
当初、日本のマスコミは新しい日本代表監督として、元名古屋監督のベンゲル氏が第一候補に挙がっていると盛んに報道していました。しかし、ベンゲルは所属のアーセナルとの関係もあり、日本サッカー協会は代表監督の要請を断念。トルシエに白羽の矢が立ちました。
しかし、何故トルシエ氏が選ばれたのか?この選考過程がやや不透明な部分があります。トルシエが、どの様なメンバーを選考し、どの様な戦術で戦って行くのか?協会はどの様なバックアップ体制を取って行くのか?色々な事が注目されました。
そんな中、トルシエは日本の若い世代の高い潜在能力に気付き、彼等の成長させて世代交代をはかりながらチームを作るやり方をとりました。
1999年にはユース代表の監督も兼任。ここで、初の準優勝という結果を残し、その時に出場していた、高原、小野、稲本、中田(浩)らは結局、W杯のメンバーに入りました。その後就任した五輪代表の監督でも、柳沢、明神、宮本らが後にW杯メンバーとして選ばれます。最初の2年間は、若い世代に力を入れていたため、なかなかA代表で結果を残せませんでしたが、徐々に若い世代が合流するようになって結果を出せるようになった日本代表。練習中や記者会見での高圧的な態度などで、ピッチの外でも色々と話題を振り蒔いた監督ではありましたが、その間、チームは確実に世代交代が進み、チームとしても、アジアカップ優勝やコンフェデレーションズカップ準優勝など、着実に結果を出しました。フラット3の不安定さや、リードされている時の選手交代などの采配に疑問をなげかける声もありましたが、トルシエは2002年のW杯までチームを指揮。日本はベスト16という結果を残しました。
他の監督であったらどうだったか?それは誰にもわかりません。ただ、日本代表がトルシエというフランス人監督のもとで成長し、4年前以上の結果を出したという事実、これは永久に残ります。トルシエの功績は決して小さくはありません。彼以上のチームを作り、更に上の結果を出すことはそう容易なことではないでしょう。しかし、それが出来るだけの力は今の日本の選手はもっているはずです。今後も、日本サッカーの更なる発展を願ってやみません。
98年の日本代表の記録
(親善試合)
99年の日本代表の記録
(コパ・アメリカ等)
2000年の日本代表の記録
(親善試合、アジアカップ予選等)
2000年の日本代表の記録2
(モロッコ国王杯、アジアカップ等)
2001年の日本代表の記録
(親善試合、コンフェデ2001等)
2001年の日本代表の記録2
(親善試合、欧州遠征等)
2002年の日本代表の記録
(親善試合、2002W杯)
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