パウロ・ロベルト・ファルカン

 オフトのW杯予選敗退を踏まえ、日本サッカー協会は次のフランス大会の予選までの間に、色々なタイプの監督を、オフトとは違う「世界の修羅場をくぐった人物」を起用する方針を決定しました。そのため、欧州路線のオフトの次は南米路線の監督を中心に人選をすすめました。そんな中で、選ばれたのがパウロ・ロベルト・ファルカンでした。

 ファルカンは現役時代ブラジル代表として2度のW杯に出場、特に82年のスペインW杯でジーコ、ファルカン、ソクラテス、と共に構成したブラジルの中盤は「黄金のカルテット」 と呼ばれ、優勝こそ逃したものの素晴しいサッカーを見せました。
 しかし、監督としての手腕は未知数で、ブラジル代表監督としてコパ・アメリカ(南米選手権)に準優勝したものの、その後、解任されてしまうなどまだまだでした。また、日本との契約期間が、わずか8ヵ月と実質活動期間が約50日と非常に短期間だったので、そのことが不安視されていました。

 ファルカンは、日本代表監督に就任してから20試合以上のJリーグの試合を見て、自分の目で選手を選びました。そのため、最初、代表に選ばれた選手の顔触れは、マスコミを大いに驚かせるものでした。初代表の若手のいわゆる「イキのいい」選手が 選手が非常に多く選ばれていていました。
 また、ファルカンはブラジル代表の戦術を理想としていたので、その戦術を日本選手にさせようとして、攻撃的布陣を敷きました。しかし、そのメンバーでのぞんだキリンカップでは、オーストラリア、フランスを相手に思うような試合ができませんでした。また、Jリーグの過密日程によりファルカンが選んだ選手が次々に負傷、そのため、ファルカンは徐々にメンバーの中にオフト時代の選手を増やさざるを得ませんでした。
 また、ファルカンは戦術を教える時、オフトが選手に目的意識を持たせ役割分担を徹底させたのとは対照的に、選手の創造力にまかせる方法をとりました。しかし、この方法は日本人のレベルには結局として合わず、ファルカンの目指しているサッカーが思うように選手に浸透しませんでした。

 最終的に、ファルカンジャパンは広島アジア大会の準々決勝で韓国に敗れ、結果を残す事はできませんでした。
 しかし、怪我人の続出、短すぎた日程など、色々と不運な面もあったことは事実でした。敗因の原因の全てを、ファルカンの手腕だけのせいにすることはできないと思います。


94年の日本代表の記録
(94年広島アジア大会等)


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