バルセロナ五輪代表の布陣


1991〜1992年

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日ソ親善試合(2月)

日加親善試合(4月)

東南アジア遠征(9月)

バルセロナ五輪
アジア地区一次予選(7月)

コニカカップ(9月)

マレーシア遠征(12月)

バルセロナ五輪
アジア地区最終予選(1月)




下に描いた布陣の図はあくまでおおまかなものです。
実際の試合とは、選手交代やポジションなどが、若干異なる場合があります。







日ソ親善試合(2月)





 日本五輪代表  0―0 ソ連ユース代表

 日本五輪代表  0―2 ソ連ユース代表




親善試合  左の布陣が、日ソ親善試合の時の日本の布陣です。

●この時の日本は、「日本選抜」という名称でしたが、その中身は21歳以下のメンバー編成、つまり実質五輪代表のメンバーでした。

●日本は第1戦では、守備もよく踏ん張り、サイドから何度かいい形を作りましたが、この時のソ連ユースは来日直後で疲れており、体調は万全とはいえない状態なのは事実でした。

●第2戦では、動きの良くなったソ連ユースに対し、日本は劣勢を強いられ、攻撃の形もうまく作られず、2―0で敗れてっしまいました。

●チームとしても完成度はまだ低く、メンバーも多くの人数を複数のポジションで試しており、まだ固まっていない状況でした。

●また、最終的に点を取る形がまだ取れず、いわゆる「決定力不足」も課題でした。







親善試合(4月)



 日本五輪代表  0―1  カナダ五輪代表




親善試合  左の布陣が、強化試合として組まれた、カナダ五輪代表との親善試合の布陣です。

●この試合、日本にとっては、力量的にほぼ互角の相手という事で色々な戦術をたしかめたい一戦でした。

●日本は、中盤の沢登がチャンスメーカーとしてパス出しの起点となり、前線のFWに好パスを通していました。藤田も2列目からの飛びだしなどで、何度かチャンスに絡みました。

●しかし、最終的に4人投入されたFW陣が、決定的なチャンスでなかなか点を奪えないままに終わってしまい、依然「決定力不足」は付きまといました。

●DF陣は3バックが、マンマークには強いところを見せましたが、1失点を喫してしまい、決して完璧な出来とはいえませんでした。

●この時点においても、日本代表チームはチームとしての完成度はまとまっているとは言えない出来でした。






東南アジア遠征(5月)





日本五輪代表  0―1  タイ五輪代表

日本五輪代表  4―1  タイ警察  
(仲村、澤登、山口、藤吉)       

日本五輪代表  1―0  広州    
(山口)       

日本五輪代表  3―4  広東    
(名塚、澤登、池田)       



親善試合  左の布陣が、アジア一次予選を直前に控えた、アジア遠征の日本の布陣です。

●記録しか残っていないので詳細は不明です。

●ただ印象としては、本番直前のこの時期になっても選手によっては、ポジションが流動的な多いなという気がします。この時期なら、もう、チーム固めに入らなくてはいけない時期なのに、まだチームの試行錯誤が続いているといった感じです。

●ただ、それまで懸念されていた得点力不足が、この頃には少しずつ解消されてきているようです。








バルセロナ五輪
アジア地区一次予選


    日本五輪代表  2―1  インドネシア五輪代表
(沢登、原田)       

日本五輪代表  1―3  香港五輪代表
(藤田)       

日本五輪代表  3―0  台湾五輪代表
(小村、沢登、山口)       

日本五輪代表  2―0  台湾五輪代表
(山口2)       

日本五輪代表  3―0  香港五輪代表
(山口3)       

    日本五輪代表  3―1  インドネシア五輪代表
(仲村、小村、澤登)       




アジア一次予選  左の試合が、香港と日本で行われたバルセロナ五輪一次予選の日本の布陣です。

●ベースとなるメンバーは、ほとんど変化はありません。

●FWでは、山口敏が前半戦は不調だったものの、後半戦になってから得点を重ねるようになり、香港戦ではハットトリックを達成するなど、通算で6得点を奪い予選通過の立役者となります。

●中盤では沢登パス出し役に徹底し、チャンスに幾度となく絡みました。

●左右のウイングバック、名良橋、永山も積極的な攻撃参加が見られました。

●DF陣では小村が、持ち前のヘディングの強さを発揮し、セットプレーからは得点も取る活躍を見せます。

●日本は最初、香港とのアウェイのゲームで、香港相手に1敗を喫してしまい、アウェイでは2勝1敗という成績で折り返します。

●日本でのホームの試合、日本は第4戦台湾を2―0で降し勢いをつけ、続く香港にも山口のハットトリックの活躍で快勝、最終戦のインドネシアにも勝利し、最終予選進出を決めます。

●しかし、日本はどの試合でも攻めの形が作れずに、組み立てのある攻撃があまりず、どちらかというと個人技に頼ったサッカーでした。

●この頃の日本には、中盤をコンパクトに保ち積極的に守備をするという意識が足りませんでした。日本は、相手もよりもまだフィジカルの面で上回っていて、何とかフィジカルで押し切ったという感じでした。







コニカカップ(9月)


日本五輪代表  0―1  ヤマハ発動機

 日本五輪代表  1―4  東日本JR古河
(小村)       

日本五輪代表  2―3  マツダ   
(山口、神野)       

日本五輪代表  1―5  日産自動車 
(石川康)       

日本五輪代表  3―2  東芝    
(沢登、京谷、三浦)       

日本五輪代表  1―0  三菱自動車 
(名塚)       





コニカカップ  左の布陣が、91年のコニカカップの時の日本の布陣です。この大会は、本来は日本リーグチームが参加する大会ですが、この時は日本五輪代表の強化の一貫として、日本五輪代表チームも参加しました。

●アジア一次予選が終了したあと、日本サッカー協会は横山謙三を「総監督」という肩書きで、新たにチームに加えます。しかし、これは実質、山口監督に変わる政権交代を意味していました。

●横山総監督は、一次予選の時のメンバー以外に新たに12人ものメンバーを呼び、試合でテストしようとしました。その中には、当時高校生だった上野、高田などもいました。

●しかし、この時に五輪代表のスケジュールは所属チームとの兼ね合いもあり、試合2日前に集合して、前日1日だけ練習して試合にのぞむ、この繰り返しで、とても戦術を浸透させるなどの時間はありませんでした。

●また、選手の起用も決して全員が使われた訳ではなく、1試合も出場せずに終わってしまった選手もいました。

●この大会では、五輪代表チームは日本リーグのチーム相手に2勝4敗でグループリーグ最下位という結果に終わってしまいます。しかも、勝った試合もその試合のメンバーの大半は一次予選を戦ったメンバーでした。新しい選手は、ほとんど力を出せないままに終わってしまいました。

●この大会は、五輪代表の強化の一貫として行われたのに、実際のところは、選手を多く呼びすぎた上に、日程的に時間の足りないものだったため、強化どころか、それまでの選手同士の連帯感までもが弱まってしまったのではないか?と危惧されほどで、ほとんど収穫がなかったと言っていい大会でした。

●チームとして何がしたいのか?そのコンセプトがハッキリせず、横山総監督の手腕並びに、こういった日程を組み、横山謙三を総監督に就任させた日本サッカー協会の行動に対しては、多いに疑問が湧きました。










マレーシア遠征(12月)


          日本五輪代表  2―2 ゲイラン・インターナショナルFC
(名波、池田)       

       日本五輪代表  1―1 バレスティア・ユナイテッド
(池田)       

    日本五輪代表  1―1 ジョン・バルーCSC
(不明)       

        日本五輪代表  2―1  レッドヒル・レンジャースFC
(小村、服部)       





詳細不明






バルセロナ五輪
アジア地区最終予選


日本五輪代表  1―2  中国五輪代表
(原田)       

   日本五輪代表  1―1  クウェート五輪代表
(小村)       

   日本五輪代表  6―1  バーレーン五輪代表
(名良橋、永井、神野、三浦3)       

日本五輪代表  0―1  韓国五輪代表

  日本五輪代表  0―1  カタール五輪代表




アジア最終予選  左の布陣が、バルセロナ五輪アジア地区最終予選の際の日本の布陣です。

●この時の大会では、上位3チームまでがオリンピック出場権を得る事が出来たので、どこのチームにとってもオリンピックに出る絶好のチャンスでした。

●日本は、チームのストライカーだった山口敏が不祥事によって、代表メンバーから外されるというアクシデントに見舞われ、神野、三浦(文)などがレギュラーとしてFWをつとめています。

●中盤では、名波、永井などの選手が新たに追加されますが、名波はレギュラー定着とまでは行きませんでした。永井も持ち前のドリブルが十分に発揮出来ずに終わってしまいました。

●DF陣では、前半戦、スイーパーには石川康が入っていましたが後半戦で負傷し、代わって入った相馬が相手の攻撃の目を摘むべく奮闘していました。

●日本は、緒戦の中国戦では原田の豪快なミドルシュートが決まり先制するも、後半体格で上回る中国の攻撃陣を抑えきれずに逆転負け、続くクウェート戦もせっかく先制しながら追い付かれドローと、チームの調子はなかなか上がりませんでした。

●それでも第3戦のバーレーン戦では、三浦(文)のハットトリックなどで6―1と快勝し3位に浮上、次の韓国戦にのぞみを繋ぎます。しかし、その韓国戦は素早いチェックから来る韓国のプレッシャーを前に防戦一方となり、試合終了2分前に決勝ゴールを許し敗戦。この時点で五輪出場の道はほぼ絶たれてしまいました。

●続く最終戦のカタール戦でも、日本は前半失った1失点を最後まで取り返す事ができず、結局、0―1で敗戦。通算成績1勝3敗分けの5位という成績で大会を終えます。

●敗れた試合は、いずれも1点差での敗戦でしたが、内容はそれ以上に完敗でした。選手のプレーには、正確性が足りず、意図的な組み立てがほとんど出来ませんでした。得点もどちらかというと、偶然性とセットプレーが頼りでした。

●一次予選の時は、ファジカルの面で相手を上回っていましたが、二次予選はどこのチームも日本よりフィジカルで上回っており、その差がそのまま出てしまいました。それを補う戦術も日本は作れませんでした。

●3年間かけて作って来たバルセロナ五輪代表は、この時を持って解散となってしまいます。確かに、上位のチームとは実力的に差はありましたが、それは事前からある程度は予想できた事でした。

●この時のチームには、キャプテンの沢登を始め、下川、相馬、名良橋、小村、名波、原田、永井、藤吉など、のちにJリーグやA代表で活躍する選手が数多く含まれていました。潜在能力はあったはずです。
 その意味では、確かに、一次予選よりも上を目指すという意味で、監督交代を決めた日本サッカー協会の判断は正しかったのかもしれません。しかし、それが何故「総監督」という中途半端なポジションで、横山謙三だったのか?などといった点にも疑問がありました。

●それなのに、こういった結果を生んでしまった背景には、強化の日程を本当に順当にこなせたのか?選手の国際経験などは本当に十分だったのか?もっと効果的な練習や戦術は用いられなかったのか?など様々な疑問が浮かばざるを得ませんでした。

●昨今の日本サッカー協会の人事のドタバタも、この時の出来事とダブるフシがなきにしもあらずのような気がします。




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